いのうえくんのこと

東京では、多くの外国人がコンビニやスーパーでレジを叩いていた。
同級生の兄弟が働いていた地元のコンビニとはうってかわり、コンクリートジャングルにはアジア系からラテン系、アフリカ系まで国際色豊かな顔ぶれが並ぶ。

 

そんな東京砂漠にありながら、近所の小さなスーパーでは、およそ日本人しか働いていない。そしてありがたいことに、高校生バイトを雇っている。

 

 

 


『いのうえくん』はある日突然現れた。

指定の緑のエプロンの中に襟元にハリのあるカッターシャツをのぞかせて、重心を片足に預けながら、レジに立っていた。

気だるげに。
所在なさげに。

足元に視線を泳がせながら、立っていた。

 

彼を視界にとらえた瞬間、脳の一部が機能停止した。あるいは逆に眠っていた部分が動き出したのかもしれない。身体を巡る血の色が、少し鮮やかになった気がした。

 


ぼくがいのうえくんについて知っていることはけっして多くはない。

 

木曜の夕方にシフトに入っていること。
爪をいつも短く切っていること。
伏し目がちなまつ毛は少し長めなこと。

 

いのうえくんは美少年でもなければイケメンでもない。
背が高いわけでも筋肉質なわけでもない。
見るからによく働くというわけでもないし、特段愛想が良いわけでもない。

 

いたって普通の少年だ。

 

カッターシャツから伸びた首筋は健康的に日焼けしていて、頬にはうっすらとニキビのあとが残っていて、紺色のカーディガンの袖口には毛玉が浮いていて、制服のズボンの裾が少し余っていて、だいたいいつも眠そうにしている。

 

どこにでもいる、普通の男子高校生だ。
どこにでもいる、いのうえくんだ。

 


そのスーパーにはレジが2つあり、いのうえくんと女子高生の2人が、それぞれレジに立っていることが多い。ぼくはフォーク並びの列に並びながら、祈りにも似た気持ちで、いのうえくんのレジを願う。


果たしていのうえくんのレジにあたると、ぼくは無言で精肉コーナーからひっつかんだ豚ひき肉を差し出す。なんで今日に限って豚ひき肉なんかを買ってしまったのだろう。しかも単体で。何か洒落た果物か、カタカナの長い名前の香辛料なんかを一緒に買っていたら。あるいはせめて牛肉との合いびきだったなら。ぼくだってほんとは牛豚の合いびき肉が欲しかったんだ。けど豚ひき肉と鶏ひき肉しかなかったから・・・。


「いのうえくん、豚ひき肉はたしかにダサいけど、今夜ぼくが作るのは餃子じゃないよ。スパニッシュオムレツなんだよ。そう、とろけるチーズたっぷりのね。」


できることなら弁明したい。しかし弁明したらいのうえくんは困ってしまうだろう。

「は、はぁ・・・」

といって隣のレジの女子高生か、もしくは納豆の品出し中の店長に目配せをするだろう。それも見てみたいが、ぼくは自認の上では男子高校生とはいえ、世間的には25歳のサラリーマンである。愚は犯さない。回避できるリスクは回避する。


普段なら電子マネーを使うところだが、いのうえくんがレジにいるときは現金で支払う。少しでも長く彼の前にいるために。彼と向かい合う権利を、キャッシュで買う。

 


「おつり32円になりまーす」

 

いのうえくんの少しかさついた指先が32円と一緒に25歳の手に触れる。その数秒、自我と思考はトリップする。


「またおこしくださいませー」

 

いのうえくんの間延びした声が脳内にリフレインする。リフレインするうちに言葉は都合よく捻じ曲げられる。

 

「25歳さん、また会いたいです」

「25歳さん、おれ、今夜は帰りたくないです・・・」

 

 

会うたびに、いのうえくんの魅力が増している気がする。いのうえくんは何一つ変わっていないのに。変わったのは自分か。それとも頬にはねる雨の温度か。夜はすっかり秋めいている。

 

 

 

気づけばもうすぐ午前3時である。


今夜、いのうえくんがよく眠れますように。
明日、いのうえくんの身に悲しいことが起こりませんように。

 


穏やかな気持ちで祈りながら、どういうわけか頭の片隅に、ぼくがスーツを着たまま深夜の神社で藁人形を木に打ちつけている映像が浮かぶ。映像の中のぼくは髪を振り乱し、呻きながら涙を流している。

 

なるほど、25歳の好意は、男子高校生にとっては呪詛と相違ないのだろう。

 

 

今日も一日、合法的に生き延びた。明日も社会の枠組みに収まれますように。