三種のデブ

思えば物心がついたころからデブが嫌いだった。幼少期に自覚したその薄ぼんやりとした嫌悪感は、年を経て世界の輪郭が広がるにつれてじわじわと存在感を増し、今では心の中の「嫌いなもの箱*1」の中、確かな質感を伴って存在している。それは巨大な鉛玉のように、重く、鈍く、黒光りしながら。

 

 

デブ、と一口に言っても、動けるデブや動けないデブ、優しいデブや傲慢なデブなど、付随する特徴に応じて多種多様なデブが存在する。ここでは『デブである』という自己の要素をデブ本人がどう評価しているか、という観点から、以下の3タイプに分類し、話を進める。

 

  • Negative - Debu(肥満否定型デブ)
    デブであることを自身の恥ずべきマイナス要素として評価しているデブ
  • Unconcerned- Debu (肥満無関心型デブ)
    デブであることは自身のアイデンティティにおいて大して重要な要素ではないと評価しているデブ
  • Positive - Debu (肥満肯定型デブ)
    デブであることはステータスであり、自身の価値向上に寄与するプラス要素であるとして評価しているデブ

  

 

Negative-D(肥満否定型デブ)

「ダイエット始めました!」

おそらく大半のデブがここに分類される。個人的には軽蔑しているが、痩せたいという気持ちや、自身の醜悪なぜい肉を恥じる羞恥心は健全といえよう。しかし私の限られたtwitterタイムラインから推察するに、成人後に一度身に纏ったぜい肉を脱ぎ捨てるのはなかなか困難なようで、彼らは何度もダイエットを試みては挫折し、自己嫌悪を繰り返す。あと部屋も汚い。

 

ところで、先日以下のツイートを見た。

 

慧眼である。これは結果を出す人と出さない人の違いへの示唆だが、過剰なぜい肉を持つものと持たざる者の違いとしても説明がつく。満腹の概念、飲食の習慣、栄養バランスへの意識、運動習慣といった点において、デブと健康な人間の『普通の基準』は異なっている。普段4000kcalを摂取しているデブが多大な努力で自身の欲望に打ち勝って3000kcalにしたとしても、いつも通り2000kcalに抑えている人間の体型にはなれない。

多くの場合、肥満とはそれ単体で発生した事象ではなく、デブとしての『普通』の基準が招いた必然的な結果である。それを解決するのはダイエットテクニックやSNSにおける決意表明ではなく、習慣化や自己変革の技術である。そして幸いなことに、その技術は後天的に習得可能である。

Negative-Dが普通の人間になるために必要なのは、意志の力に基づく途方もない努力ではない。デブの習慣を断ち切り、健康的な小さな習慣を積み重ね、人間としての普通の基準を内在化することである。そのための具体的な方法論は、amazonなどで書籍に当たればいくらでも入手することができよう。もっともこうして問題の根本と向き合わず、「これさえすれば痩せられる」といった商材に飛びつく浅はかさこそが、私がデブを嫌う理由なのだが。

 


Unconcerned-D (肥満無関心型デブ)

「おれが太っていることは大して重要な問題じゃない」

常に相互的な外見アセスメントに晒されがちな同性愛者においてここに属する人間は決して多くはないが、それでも確かに存在する。私の同性愛者交友関係においても、自身がデブであることをほとんど気にしていない(ように少なくとも私からは見える)友人がいる。

彼の体型に目を向けると10人中10人が太っていると評するであろう。しかし多言語を操り、ワインや食に造詣が深く、かねてから本人の志望していた仕事を生業とする彼は、これまでの成功体験からか、太っていることが大して重要なことではないように存在している。

また、異性愛者に目を向けたとき、このUnconcerned-D層はさらに厚くなる。極論を言ってしまうと、異性愛中高年男性の大半が小太りかそれ以上である。家庭をもち仕事や年収や立ち振る舞いで評価される彼らの価値観において、多少のぜい肉はさして重要度の高い課題ではない。

実は私はこのUnconcerned-Dに属するデブが嫌いではない。もう少し厳密にいうと、太っているという理由で嫌うことはない。不潔であったり悪臭がしたとしても、太っていることはその一要素であり得てもイコールではなく、相性や性格が合わないために苦手とする場合でも、それはデブとは別の独立した問題である。

もちろん彼らが太っていることは客観的な事実として我々の間に共有されているが、その事実は、それが彼を語るうえで無視できない要素として我々に認識されたときに初めて明確な存在感を得る。私が彼らと対峙するときに目の前に現れるのは、デブではなく、太った人間なのである。

 

 

Positive-D (肥満肯定型デブ)

「ゲイは多少太ってる方がモテるんだよね!」

何をどう拗らせたのか、肥満を自身の誇るべきステータスとして認識している層は、特に同性愛者界隈に跋扈し、我々人類の精神衛生に暗い影を落とす。

本人がデブのことを性的に好きだから、翻って自分のぜい肉をも愛しているのかもしれない。しかしそもそもそれはデブとしての自分を受容するための防衛機制が働いているだけなのではないか?デブだからデブが好きなのか、デブが好きだからデブなのか・・・因果性のジレンマは、発達心理学LGBT問題と絡まり合いながら、小規模な混沌を形成している。

「お肉の魅力たゆんたゆん」で知られるデブ愛好家の小鳥遊氏は述べる。 

 常にデブに寄り添い、デブの汗をぬぐってきた氏をもってしても、Positive-Dのクリーチャーを弁護するのは困難を極めるのである。

 
私の中での現時点での結論だが、Positive-Dの問題は個人レベルでおいそれと手が打てる問題ではない。2017年末に界隈を騒がせた『全裸鍋パ』や、2018年夏の『未成年デブホモポッキーゲーム』はまだ記憶に新しいが、あれらの事件*2の異質性が示すのは、これが既に個人の指向の枠組みを超え、社会病理に達しているという事実である。

 

彼らについて論じるとき、我々は貧困や虐待や売春や、戦争について語るときと同等の覚悟を持たねばならない。

 

*1:嫌いなもの箱の中にはデブの他に『ビジネスマナー講師』や『カリスマ駐在妻』、『自称プロ就活コンサルタント』などが乱雑にぶち込まれている

*2:事件と一般人には認識されているが、当事者にとっては日常の1シーンに過ぎない